レモン哀歌

今年最後のウォーキングで


「レモン哀歌の碑」を訪ねました。


智恵子さんの身長と同じに造られた

石碑の前で一人が下記を朗読し


もう一人が「レモン哀歌」を朗読しますと

……冬の空に何か愛惜感が漂い

涙も(~_~;)



高村光太郎は、東京で生まれ、彫刻家・詩人として活躍した。


その妻智恵子は、福島県二本松の裕福な造り酒屋に生まれ、日本女子大学を卒業後、絵画を学ぶうち光太郎と知り合い、大正3年(1914)に結婚した。 


智恵子は、そのころには珍しく社会的自立を目指す女性で、絵画の創作を単なる趣味ではなく、経済的自立の手段と考えていた。


しかし、結婚後は、思うように絵が描けず、また、父の死や実家の没落も打撃となって、智恵子は次第に精神を病むようになる。


光太郎は仕事を減らして看病に専念したが、病状は、すすむ一方で、昭和10年(1935)にはゼームス坂病院に入院した。 


この病院で智恵子は、今まで抑(おさ)えられていた創作意欲をはきだすかのように切り絵に没頭し、一千点もの作品を残す。


しかし、遂(つい)に退院できぬまま、3年後に生涯を終えた。 


ゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまったが、その跡地の一角に、記念碑「レモン哀歌の碑」が建てられている。



1938年智恵子が死ぬ数時間前にレモンを

口に含んだときの様子が光太郎の詩

「レモン哀歌」に描かれている。

■詩集「智恵子抄」より=レモン哀歌=

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で 

私の手からとつた一つのレモンを 

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ 

トパアズいろの香気が立つ 

その数滴の天のものなるレモンの汁は 

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関ははそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう


誰が置くのか……新鮮な本物のレモンが

碑の前に置かれてありました。

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