早くも年越し蕎麦

毎年恒例になっている

年越し蕎麦の会は、小岩の「蕪村居」

(店主が俳人・蕪村が好き)に集まり、

今年の年越し蕎麦として下仁田葱蕎麦を

食べました。( 気の早い事 !)


群馬下仁田葱は体が温まり、トロトロ感が

あり蕎麦ととてもよく合うので必ずいつも

全員が食します( 今年で3年目 )

熱々デス。


揚げそばも美味しい一品で感動しました。


蕎麦は、北海道幌加内と福井県丸岡産。


左が北海道幌加内。


今年も無事に生きてきた事に感謝し

来年もよろしくと一献。

神亀 辛口 埼玉

小笹屋 竹鶴 ひろしま

日置桜 強力 7号 鳥取

でした。


毎年今頃のイチョウ並木(品川駅前)は、

ほぼ全部

落葉しているのですが、、、今年は

暖冬の影響でまだ沢山あります。

何時も「最後の一と葉」は、どの樹になるか

見ているのですが(60本くらいの内)、、、もしかすると来年かも。

レモン哀歌

今年最後のウォーキングで


「レモン哀歌の碑」を訪ねました。


智恵子さんの身長と同じに造られた

石碑の前で一人が下記を朗読し


もう一人が「レモン哀歌」を朗読しますと

……冬の空に何か愛惜感が漂い

涙も(~_~;)



高村光太郎は、東京で生まれ、彫刻家・詩人として活躍した。


その妻智恵子は、福島県二本松の裕福な造り酒屋に生まれ、日本女子大学を卒業後、絵画を学ぶうち光太郎と知り合い、大正3年(1914)に結婚した。 


智恵子は、そのころには珍しく社会的自立を目指す女性で、絵画の創作を単なる趣味ではなく、経済的自立の手段と考えていた。


しかし、結婚後は、思うように絵が描けず、また、父の死や実家の没落も打撃となって、智恵子は次第に精神を病むようになる。


光太郎は仕事を減らして看病に専念したが、病状は、すすむ一方で、昭和10年(1935)にはゼームス坂病院に入院した。 


この病院で智恵子は、今まで抑(おさ)えられていた創作意欲をはきだすかのように切り絵に没頭し、一千点もの作品を残す。


しかし、遂(つい)に退院できぬまま、3年後に生涯を終えた。 


ゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまったが、その跡地の一角に、記念碑「レモン哀歌の碑」が建てられている。



1938年智恵子が死ぬ数時間前にレモンを

口に含んだときの様子が光太郎の詩

「レモン哀歌」に描かれている。

■詩集「智恵子抄」より=レモン哀歌=

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で 

私の手からとつた一つのレモンを 

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ 

トパアズいろの香気が立つ 

その数滴の天のものなるレモンの汁は 

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関ははそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう


誰が置くのか……新鮮な本物のレモンが

碑の前に置かれてありました。

さまざまな太鼓

鼓童〈新潟1981年結成、太鼓芸能集団〉と坂東玉三郎さんとのコラボコンサートがありました。


歌舞伎役者で人間国宝の坂東玉三郎さんは、


鼓童の芸術監督となり・太鼓演奏の作曲と


演出に関わっていました。

写真は、パンフレットより

舞台がこれまでと?ガラリと変わり全てが演出の範囲であるかのようなしつらえ、、、


玉三郎さんの作曲 最初は「去来」次いで


「哀愁」「木霊」「鍵盤」4曲を聴くのも見る


のも初めてでしたがビックリ仰天!しました。


太鼓とドラム( ドラム監修梶原徹也)の組み合わせも新しい発想で


これまで聞いたことのない作風……


今回のテーマが「混沌」なのですが

少しも混沌が感じられない!


日本の和太鼓の良さが表現され尽く

されている!

舞台と客席が一体となれる工夫もある。


残念なのは、曲の区切りがハッキリせず、、、くらいかな。


帰りに食べた一品 サーモン・トマトサラダもおいしかった!